日刊労働通信社 | 安倍強し

安倍強し

コラム 国際

 

産経の「論説委員日曜に書く」に、湯浅博氏が「『ミュンヘンの教訓』が消えた」を書いている。

 

「米国が軍事介入を決断するとき、常に積極策の『ミュンヘンの教訓』を採るか、慎重策の『ベトナムの教訓』を採用するかの岐路に立たされる。
1990年代半ば、クリントン政権のホワイトハウスでボスニア介入をめぐる激論が交わされた。当時のオルブライト国連大使が、慎重なパウエル統合参謀本部議長に『優れた米軍を率いている意味はなんなのですか。あなたはいつも軍事力が使えないことばかり話している』と激しく批判した。さらに『同世代の人々はベトナム戦争の教訓をあげるが、私にとってはミュンヘン会談なのです』とたたみ掛けた。パウエル議長は自著で『この時、私は金縛りにあった』と率直に書いている。
ミュンヘン会談とは第二次大戦開戦前年の38年9月、ヒトラーの呼びかけで英仏独伊の列強が、チェコのズテーテンランド地方をドイツに割譲する合意をいう。チェンバレン英首相は『戦争はミュンヘンで回避された』と喜んで帰国した。しかし翌年3月にはドイツがあっという間にチェコ全土を制圧してしまう。ミュンヘン合意はドイツの侵略を誘い込むだけだった。

 

チェコ生まれのオルブライト氏は、この教訓から米軍の武力行使に果敢な決定を求める。米国はセルビア人勢力に対する空爆を決行して各勢力を交渉のテーブルにつかせ、1995年11月、各派によるデイトン合意を引き出した。ミュンヘンの教訓が功を奏した事件である。
しかし、米国にはこれまでのミュンヘン、ベトナムという2つの教訓に対して『イラクの後遺症』が加わっている。
2001年の米中枢同時テロ9・11をきっかけに、米軍兵士がアフガニスタンの砂漠を越え、イラクの市街地でテロリストを討伐している間に12年が過ぎた。米国はこれら2つの戦争で6600人の犠牲者を出し、2兆ドルをつぎ込んで国力の衰退まで指摘される。
そこにシリアの内戦が起きた。この4月にシリアによる化学兵器使用を受けて、米英仏が軍事行動を起こすとみられていた。しかし、英国議会がシリアへの軍事介入の決議を否決したころから、オバマ大統領も連邦議会に賛否を求めた。『イラクの後遺症』ゆえに、オバマ政権内に“オルブライト”がいなくなったのだろう。オバマ氏の優柔不断から、介入決断のタイミングがずれてしまった。
その間隙を突いて、ロシアが『化学兵器を国際管理に』との仲介案を出し、シリアがこれに飛びついて一転、軍事オプションは不透明になった。アサド・シリア大統領は言を左右にしながら化学兵器を隠匿する時間を稼ぎ出した。おそらく、国連決議を受けて査察団が行っても、政府・反政府両派から狙い撃ちされて満足な査察はできないだろう。やはり軍事介入が必要という事態に戻りかねない。

 

プーチン露大統領はシリア攻撃にはやるオバマ大統領にクセ球を投げて鼻を明かした。シリアの化学兵器も含めて兵器は大半がロシア製だから、依然として有力な武器輸出先は確保できる。そして、ロシアをけしかけた中国は『オバマ弱し』とほくそ笑んだに違いない。
この間にも、アジアでは中国が海空軍を増強し、宇宙船、サイバー戦の能力を高めた。疲弊する米国の海洋覇権に挑戦を開始している。東シナ海で中国と対峙する日本にとっての気がかりは、同盟関係にある米国の指導力衰退である。軍事介入に消極的なオバマ大統領にとっては渡りに船の提案でも、米国の威信が低下したことは否めない。
世界を主導する超大国が『弱い』と見なされることは危険が伴う。オバマ大統領が弱いと見なされれば、シリアへの最大の武器輸出国であるロシアと宗派の近いイランを利することになる。イラクやアフガニスタンのテロリスト復活にも勢いがつく。何よりも中国は、米国の失墜は『わが利益』とそろばんをはじくだろう。

 

しかし、アジア太平洋地域は、シリアの内戦と違って米国の国益に直接的に結びつく。日本は集団的自衛権の行使を可能にして、米国との同盟に双務性を持たせる必要があろう。安倍晋三政権は米国に限らず、遠い国と手を組んで近くの敵に二正面作戦を強いる『遠交近攻』外交を加速させる必要がある。日米同盟を土台として東南アジアや欧州へ筋交いを伸ばし、国家の“耐震性”を強くしよう」。
オバマ大統領は、「ミュンヘンの教訓」に学ばず、「ベトナムの教訓」、「イラクの後遺症」に従ったのである。結果、ロシア、中国、イラン、北朝鮮、シリアから「オバマ弱し」と見透かされることになったのである。

 

問題は、中国が、「弱いオバマ」に対して、海洋覇権に挑戦することである。尖閣諸島占領である。日米同盟の強化が急務となり。集団的自衛権行使容認が必須となる。海洋覇権を狙う中国を日米同盟で阻止するのが、安倍首相の歴史的責務となる。「安倍強し」とならねばならない。
 
 
編集 持田哲也

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